実生活での効果を得たいならヴィパッサナー瞑想を選択するべき【ブッダの瞑想法レビュー】

「ブッダの瞑想法 ヴィパッサナー瞑想の理論と実践」を読了しました。

瞑想はいくつか種類があって一般的にサマタ瞑想とヴィバッサナー瞑想があります。

この本ではその比較が書いてあって、普段みんながマインドフルネスと呼んでいるものはヴィバッサナー瞑想に近い。

ヴィパッサナー瞑想は物事の観察に重きを置いて、煩悩を遠ざける手法を用いており、実生活において実用的な瞑想です。

マインドフルネスや瞑想をやっている人は、漠然とストレスの軽減や頭の整理を目的にしている人が多いと思います。

でも瞑想はどのような姿を目指していて、その目指している姿に近づくためにどうして瞑想が効果が有るのか、多くの人は知らないと思う。私も良く分かっていない。

でもこの本読んで、少し掴めたような気がします。この本を読むことでマインドフルネスや瞑想の理解がより深まり、その効果を信頼できて、瞑想の継続につながると思います。

ヴィパッサナー瞑想とは

ブッダが人々が苦しい状態から解放されること願って、提示した方法がヴィパッサナー瞑想というシステムです。

ヴィパッサナーは詳しく観察するの意味です。

思考を止めて事実をありのままに見ることができれば、苦から解放されるという理論に基づいています。

感覚や感情など、ありのままの事実に気づき妄想を捨てていく。この動作をサティと言って、英語名ではマインドフルネスと言います。ヴィパッサナー瞑想もこのサティを中心に訓練が組まれます。

瞑想はサティ→観察→洞察の順で行われていき、その妄想に名前を付けて洞察を行うのをラベリングと言います。

歩く瞑想、立つ瞑想、座る瞑想とありますが、全て皮膚感覚や体の動きにサティを入れていき、ラベリングしていく。

事実に気づくことによって、諸悪の根源であるで妄想の世界を捨てていく。サティを入れて続く思考の流れを止めるのが、ヴィパッサナー瞑想の方法です。

人々を苦しめるもの

これは多くの瞑想の本に書いてありますが、人々が勝手に作り出す妄想です。

自分の中で事実を勝手に判断して、妄想を作り出し、心が暴走する。

怒りや悲しみ、憎しみの感情を生み出す。それに人々は苦しめられてきている。

修行僧はそれを鬼と呼んでいる。

この鬼とも呼ばれる苦しみから解放され悟りが得られるよう、修行したり、人々から苦しみを排除するために僧は法を説いたりしているわけです。

サマタ瞑想との違い

一般に瞑想は、ヴィパッサナー瞑想とサマタ瞑想の二つに大別されます。

サマタ瞑想は一点集中型の瞑想で、反復されるイメージや言葉などの対照に意識を集中し、究極の集中状態である「サマーディ」を目指すのが目的です。

よく呼吸に意識を集中させる瞑想法が書かれていますが、あれはサマタ瞑想が近い。

その目的である集中の極みの先に、気分の高揚というものも付いてくる。

しかしブッダは、これは心を変えるものでは無い、としてヴィパッサナー瞑想を開発しました。

もちろんサマーディもヴィパッサナー瞑想で重要な位置づけではあります。

ただしヴィパッサナー瞑想は事実の世界の本質を洞察する事も目的としています。 ヴィパッサナー瞑想はサマタ瞑想に比べ、より現実世界に即した瞑想法であるとも言えます。

慈悲の瞑想は手軽に行える

慈悲の瞑想は、ヴィパッサナー瞑想の訓練にも組み込まれているものです。

サティを入れて洞察が進んでいっても、心の反応が変わらなければ意味がありません。慈悲の心を私たちの反応パターンに組み込んでいく訓練を、慈悲の瞑想と呼びます。

  • が幸せでありますように
  • の悩み苦しみがなくなりますように
  • の願うことがかなえられますように
  • に悟りの光が現れますように

この「」の部分を「私の親しい人々」「生きとし生けるもの」「私が嫌いな人々」「私を嫌っている人々」と言葉を変えていきます。これを順番に心の中で唱えます。

サティの瞑想をする前後に慈悲の瞑想をすると、サティの質が高まるので推奨されています。時間や場面の指定は特に有りません。心が汚れているときにいつでも行うと良い。

心を慈悲モードに変換する強制力もありますし、いろいろなことに臨む方が環境や人に対してもいい影響が与えられます。

手軽だし、個人的に慈悲の瞑想はオススメです。

ヴィパッサナー瞑想の腹落ちポイント

個人的にヴィパッサナー瞑想が理にかなっているなぁという点を挙げます。

観察・洞察に重きを置いている

サマタ瞑想のような瞑想をしてきた私は、妄想が出てきたときに流す、という感覚が全く理解できなかった。

その代わりに浮かんだ妄想を見る、気づくことで妄想が消えることが多かったので、これは自分の経験から有効だと感じています。

事実を知ることも目的の一部

人の怒りや恐怖は、分からない事に関してあれこれ考えてしまう事から始まる。観察はその事に対してよく知ること。

怒りや恐怖も、一度知ってしまえば怖くはありません。

ヴィパッサナー瞑想がサティに重きを置いていることは、その理によく適っています。

サティのラベリングは過去形

感覚をラベリングするときに「触れた」「上げた」「怒った」など過去形としている。

あくまで事実を見る瞑想であり、事実や原因は先、確認が後という原理原則にかなったやり方。細かい事だけどよく考えられている。感動しました。

スピリチュアルでない

サマタ瞑想は、集中による気分の高揚も組み込まれてきてしまっています。それは一時の高揚感であり、現実世界で使えるものではないとブッダは一蹴している。

確かに私も瞑想で光が見えて気分が高揚する事はあった。でもその時の感覚は快楽に近く、目的として正しいのかは疑問でした。

ヴィパッサナー瞑想でサティの訓練を続けると、日常生活でも集中が高まった場合、身の回りの出来事に高速でサティを入れられるようになるようです。

これは運動などと一緒で、極めたときの行きつく場所として、非常に現実的だなと感じました。

やっぱりヴィパッサナー瞑想≒マインドフルネスが優れてる

今までやってきた瞑想はサマタ瞑想寄りで、目的や方法の確からしさの根拠が理解できず、戸惑う事が多かった。ヴィパッサナー瞑想は私の腹に落ちたので続けられそう。

また結局、ヴィパッサナー瞑想で使うサティはマインドフルネスなんですよね。

マインドフルネス流行ってて、おしゃれな感じがして、「うるせー、瞑想はそんなカジュアルじゃねえ!勝手にやってろ!」という中二病丸出しな意見で見向きもしなかったんですが、ただ呼び方が違うだけでした。お恥ずかしい。

マインドフルネスは現代の社会に合わせて変化していった結果このような形になっていると思うので、これからヴィパッサナー瞑想と共にもっと調べて理解を深めたいと思います。反省。

 

ではまた。